工芸の新たな楽しみ方を提案するWEB MAGAZINE。
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九谷焼の粘土を用いた磁器でありながら、絵付けは一切せず、フォルムの美しさと白のテクスチャーで魅せる中田博士さんの作品。小松市高堂にある絵付け工房の三代目として生まれた中田さんが、独自の表現方法にたどり着くまでの道程や、九谷焼の捉え方など、創作にまつわるお話をうかがってきました。
蕾(つぼみ)が今まさに花開かんとするその刹那。内在するエネルギーが、外世界を押し広げようとする臨界。陶芸作家・中田博士さんの作品には、ふくよかな生命力と、ある種の緊張感が同居する。
「白は誤魔化しがきかないんです。色味がない分引き締まらないので、シルエットがぼんやりしていると本当に野暮ったいものになる。そういう意味では、『形』が一番クリアに露われる色だと思います」と中田さん。
「パール釉」と呼ばれる、真珠のようにマットで上品な光沢を放つ釉薬も、「白」と「形」を活かすために独自に開発したもの。通常九谷焼の「上絵付け」で用いられる釉薬は低火度(※)のものが多いが、パール釉薬は中火度。本焼きの釉薬が溶け戻すまでに温度を上げて焼成するため、釉薬がまるで肌のようにボディと一体化している。
(※)低火度…1200度以上で本焼きした器に、絵付けした絵の具が落ちないよう焼く作業で、800〜900度を指す。
29歳で伝統工芸展の新人賞を受賞してから、工芸作家の新星として注目を浴びる中田さん。現在は花器や壺などの作品がメインだが、元々は“アート”の要素が強いオブジェ制作をしていた時期が長かったという。
中田さんは祖父の代から続く九谷焼の絵付け工房「錦苑窯(きんえんがま)」の家に生まれた。自宅がある高堂(たかんど)は、小松市における九谷焼絵付け職人のメッカでもあった。長男ということもあり「継がなくてはいけない」という意識はどこかであったものの、継ぎたいとも継ぎたくないとも、感じられぬままの少年時代だった。
石川県立工業高校の工芸科を卒業した後、大阪の専門学校で陶芸を学ぶ。「そこで初めて土を触ったんです。実家は絵付けの工房だったので、すでに完成した素地しか目にしたことがなかったため、初めて陶芸を目にする人が感じる“新鮮さ”と同じだったと思います。土という素材が自分の手を介して形を帯びていく、その喜びを感じてから陶芸にはまっていきました」
本格的に陶芸を学びたいと、京都精華大学の陶芸科へ編入。大学では「作品」への概念を教わることが多く、中田さんがオブジェ制作に向かったのはある意味自然な流れだった。当初「鋳込み(※)」で作品制作をしていたのは「ろくろのように、土から形が立ち上がるということが、初めは感覚として掴めなかった」からだという。
(※)鋳込み…石膏型の内側に泥漿調整を行った陶磁器土の層を一様につくる成形方法。 複雑な形状は、石膏型のいくつかの断片を組み合わせて制作する。
しかし、中田さんは27歳を境に、オブジェ制作自体をパタリと辞めてしまう。
「自分がつくっているものに、何の意味があるのだろうという虚しさを感じたというか。もう少し、『ちゃんと人と付き合いたい』と思い始めたんですよね。オブジェって独立した存在というか、自己表現の要素が強い部分があると思うのですが、自分のためだけじゃない、もっと人と接点を持てるものがつくりたくなって」
「自我」という意識の型取りで、作品を押し固めていくことへの違和感やしんどさもそこにはあった。
「人との接点≒用のあるもの」をつくろう。そう決めて、アートの世界から振り切って「伝統工芸展」に出し始めた。
「学生の頃から全国の窯業地を巡ることが好きだったんです。そこで人間国宝であったり、色んな工芸作家に出会って。生意気な言い方ですけど『こういう人たちがいる世界はアリだな』と思っていました。僕は基本的に“作り手”が好きなんです。作家としてきちんと立っているし、人として面白い人が多い。だから伝統工芸展に出すことに抵抗はなかったですね」。伝統工芸展に出品し始めて2年目には、「新人賞」を受賞した。
中田さんの作品は、「花坂陶石」という古くから九谷焼を支えてきた磁土からつくられる。緑・黄・紫・紺青・赤という「五彩」を多用する九谷焼において、絵付けをせず、シルエットと白のテクスチャーだけで勝負する中田さんの作品は「新しい九谷焼」として称賛されることも多い。
しかし「九谷焼をやっている、という感覚は自分の中にはない」と当の本人は語る。
「九谷ということを、どう意識したら良いのだろうと。今の九谷焼って多様で難しい。そういう意味で、むしろ僕としては『五彩を使っていないものは九谷焼じゃない』と言い切って欲しいんです。歴史が浅い産地ならまだしも、九谷焼にはそれらがちゃんとある。
僕のような作家も『九谷焼には表現の場を求められなかったけれど、他の手法でつくっている作家』くらいの位置付けでいい。新しく生まれるものを『あれもこれも九谷』として取り込んで、九谷が膨張してしまっていることには疑問を感じるところもあります」
九谷焼とはある距離感を保ちながらも、同時に「この土地で作っていなかったら、こういう作品はつくっていなかった」と、環境から受けている影響力にも中田さんは自覚的だ。
「九谷焼って、あらゆる技法で加飾するでしょう。それ自体は自分の好みではなかったにせよ、周りにそういったものが沢山あったからこそ、反作用として僕は真っ白な作品をつくっているところがあるのかもしれません。
また、昔からこの土地は“完成度”への厳しさがある。問屋制が長らく強かったことも関係しているのかもしれませんが、作品をまとめ上げてく能力の高さと同時に、小さな“アラ”もない。手業ということを感じさせないほどの完成度がある、それは作品にとって一つの説得力になりますよね」
“自分”というものだけでなく、素材や土地といった“自分以外の何か”と常に作用関係にありながら展開していく。工芸作家として以前から持っていたこの感覚が、あるニュースを見て腑に落ちたという。
「今流行している新型コロナウイルスの遺伝子って『RNA(※)』なんですってね。人の遺伝子のようなDNAは2本の軸があって、らせん構造で形成されているけれど、RNAは一本軸。変異種となると、どこまでも変異していくというか、方向性が分からないそうなんです。だからワクチンも開発しづらい。
(※)RNA…DNAと同じ核酸で、ヌクレオチドと呼ばれるリン酸・塩基・糖から成る基本構造を持つ。転写により一部のDNA配列を鋳型として合成され、一本鎖のポリヌクレオチドである。
ニュースでその遺伝子構造を目にしたときに『ああ、作り手ってDNAみたいだな』って思ったんです。たぶん『作り手』にとってすごく大事なことが、自分という柱があって、あと一本なり二本なり、別のところに軸があることなんじゃないかなと。それが、地域なのか、家族なのか、あるいは作家仲間なのかは分からないし、人によって違うと思うけれど。複数の軸があるから、ある秩序をもって、きれいに伸びていくことができるんじゃないでしょうか」
新型コロナウイルスの感染拡大により個展の予定が飛んでしまい、自宅で制作に没頭していた時期、中田さんは数年前庭に植えた大山蓮華(おおやまれんげ)が白い蕾を膨らませていることに気がついた。その美しさに心打たれて制作した作品も昨年発表している。「昔は直線的な作品が多かったんですけど、年々有機的なラインや自然物に惹かれていく自分がいるのは何故なんでしょうね。年のせいかな」と笑う中田さん。
大鉢のような大作となると、かなりフィジカルな作業だが「こんな楽しいことがあるのか」と思うくらいにろくろに向かう時間が好きだという。「手を動かしながら考えることもあるし、アイディアからアウトラインをつくっていくこともある。その両方です。この先どんな作品をつくるのかは自分でも分からないですね」
この土地で暮らしながら、土と向き合う中で立ち上がってくる何か。中田さんの今後の作品からも目が離せない。
PROFILE
中田博士(なかだひろし)/小松市高堂町にある『錦苑窯』三代目。石川県立工業高校卒業。大阪美術専門学校卒業後、京都精華大学陶芸科へ編入し卒業。2009年に「日本伝統工芸展」新人賞受賞。2010年金沢世界工芸トリエンナーレ(金沢21世紀美術館)現代陶芸アートフェア(東京国際フォーラム)出品。直近では2020年日本伝統工芸展にて「東京都知事賞」受賞。全国各地にて個展を中心に作品発表を続ける。http://nakada-kinengama.com
柳田 和佳奈(ライター/有限会社E.N.N.)
1988年富山県黒部市生まれ。富山大学芸術文化学部 文化マネジメントコース卒業。金沢で地元情報誌の編集者を経て、現在は有限会社E.N.N./金沢R不動産でローカルメディア「reallocal金沢」の運営などをしている。