工芸の新たな楽しみ方を提案するWEB MAGAZINE。
作り手やアーティスト、北陸で暮らす人たち。
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九谷焼の窯元「上出長右衛門窯」の6代目として窯のディレクションを行う一方、個人の作家としても活動している上出惠悟さんに、事業や作品のこと、ブランディングに込めた想いなどをうかがいました。
実は僕、「上出長右衛門窯」には入社していなくて、いまだに社員じゃない。2014年8月に「合同会社 上出瓷藝(かみでしげい)」という会社をつくって代表をやっています。
「上出瓷藝」では商品企画、販売などをしています。「上出長右衛門窯」の商品デザインも、「上出瓷藝」として仕事を受けています。「長右衛門窯」の古くからの顧客は減っていますが、新規でお取引させていただいている小売店さんは「上出瓷藝」と契約して商品を卸しています。
展示会やパッケージのデザイン、プロデュースの仕事を引き受ける場合も「上出瓷藝」です。「クタニシール」も「上出長右衛門窯」ではなく、「上出瓷藝」のブランドです。
資金繰りが大変な時は取引先や従業員さんを優先して、親族は後回しってなるじゃないですか。僕は「上出長右衛門窯」で働いていても給料がもらえないことも多かったので、僕ら夫婦が生きていくためにも収入が必要でした。
僕が「東京藝術大学」を卒業して地元に戻ったのが2006年。その頃の「上出長右衛門窯」は大変でした。僕が大学を卒業して戻って来ると言うと、父からは「終わった業界では食べていけないから帰ってくるな」と言われました。
だけど僕は、父の反対を押しのけて帰って来ました。僕が小さい時から窯には職人さんがいて、親戚のおじさんや家族みたいに思っていたのに。それを「終わった業界」と言われて、当時は若かったのもあるけど、すごく悔しくて哀しかった。今は嫌というほど父の気持ちがわかりますが。
僕は新しい活動や可能性を見せることで自然と商売もうまくいくかな、という楽観的な感じで見ていました。とにかくいろんな可能性を知ってもらおうと思って、外から内側に向けて発信をしていたところがありました。内に向けて発信というのも変だけど、僕が活動することで父や職人たちの意識を変えたいと思っていました。
色々やってはいたけれど、ずっと窯の経営は火の車でした。ある時、親しくしていた方からプロデューサーの出島二郎さんを紹介されました。金沢のD氏といえば、知る人ぞ知る老舗や家業を専門にされている方で、僕も色々なことを話したし、こうあるべきといった指針や、酒蔵や窯元などの実例をお聞きしました。
D氏からは「窯元にとって、窯とはモノづくりの中心になければいけない」とか、今でも大事にしている言葉をいくつも言っていただきました。けど、僕らはその時その時を乗り越えるのに精一杯で、その答えは出なかった。もちろん、すぐに解決できる問題ではないことも、わかっていたんですが。
その後も「中川政七商店」の中川淳さんや、事業承継の専門家の奥村聡さんなど、色々な人に経営相談をしました。僕の大叔父も起業家で「若い二人が大変な思いをして、色々なことを犠牲にして仕事をするべきではないだろう」と言って親身になってくれました。
そんな中、「クタニシール」のプロダクトや長右衛門窯の「笛吹」が注目され始めました。「合同会社 上出瓷藝」を立ち上げたのもその時期です。とにかく僕たち夫婦が長右衛門窯から自立して活動するための安定した受け皿が必要でした。
そうこうしていると、2015年の北陸新幹線の開業日にオープンする石川県の物産品を扱う「八百萬本舗」の中に「KUTANI SEAL SHOP(クタニシールショップ)」を出店することになり、少しづつ流れが変わっていったんです。
2010年のハイメ・アジョンのプロジェクトは、今思えばかなり無謀な挑戦だったかもしれない。でも、その頃は経営については無知だし、何かをしなければ生き残っていけないという思いが強かった。
僕が初めて「上出長右衛門窯」の展覧会をしたのが、「伊勢丹 新宿店」で開催されていた「DESIGNTIDE TOKYO 2008」のイベント。その時に同じフロアで一番大きな展示をしていたのがハイメ・アジョンで、同じ会場の片隅で出展していた僕とハイメを、伊勢丹の人が近づけてくれました。
僕はハイメの作品を気に入って、彼の作品で長右衛門窯の製品ができるのを夢想しました。声をかけてみたら興味を持ってくれた。僕は父に片っ端からハイメが紹介されている雑誌を見せて説得しました。
しかし、残念なことに大きな打ち上げ花火はその時だけのもので、根本的な解決策にはなりませんでした。もちろん、ハイメとのプロジェクトは本当に楽しかったし、素晴らしい作品は今でも大好きな財産です。プロデュースをお願いした丸若裕俊さんと有意義な時間をたくさん共有しましたし、失敗したわけではありません。
僕は大学を卒業して能美に帰ってからの1年間は、自分の作品づくりと運転免許の取得に取組んでいました。「何かやらなければ」という気持ちで過ごしている時に、丸若さんが「PUMA JAPAN」から新しく世界発売される自転車のプロモーションの仕事を依頼されて、アメリカでは有名なグラフィティーのアーティストが手がけるなら、日本は伝統工芸で対抗できないかと九谷焼を訪れた際に思ったそうです。
九谷焼の業界の人たちが「そんなもの作れない」「その仕事をやれるのは芸大出てバナナを作っている上出の息子じゃないか?」って、僕のところにまわってきたのが丸若さんとの出会い。
その日、僕は法事で喪服を着たまま近所のモツ焼屋に呼ばれて。そこに丸若さんがいて。「こんなプロジェクトなんだけど」って誘われて、「やるやる」って割と軽く答えたように思う。当時は「何かやらないと」って焦っていたから、ぜひやりたいって引き受けてしまった。
だけど、その1ヶ月後に自転車5台を発表するというタイトなスケジュールで。今考えるとむちゃくちゃな話で、絶対に受けてはダメな仕事です。自転車のサドル、ハンドル、ペダルのリフレクター(反射板)、プーマのエンブレム、キーの差込口のカバーを5台分。そしたら、2007年にオープンする東京ミッドタウンの店舗にも欲しいとなって、急遽もう1セット増えて6台分になってしまった。
はい、職人さんや知り合いの作家さんにも手伝ってもらいましたが、大部分は自分で作りました。それまで、バナナのシール部分の絵付けしかしたことがなかったのに。ほとんど初心者が描いたものを、その後に能美市がコレクションとして購入してくれました。この自転車はオークションにかけられ、売り上げは石川県陶磁器商工業協同組合を通じ、2007年に発生した能登半島地震の被災地復興義援金として輪島漆器商工業協同組合に贈られました。それで1台を能美市が購入してくれたのです。
「笛吹」はもともと中国の明時代の古染付の絵柄で、上出長右衛門窯では60年ほど描かれているデザインです。サックスやピアノなどの楽器のバリエーションは、僕がデザインしたものを職人が描いています。以前は個々にかなり顔が違っていましたが、オンラインショップで購入した場合に、写真で見ていた顔と違っていると「あれ?」ってなっちゃう。だから、今はなるべく皆が同じ絵を描けるようにしています。
だけど、それによって得たものもあれば、失ったものもあるように思う。職人の皆んなが、それぞれ自由に笛吹を描いて、お客さんも好きな顔の笛吹を買うのが面白かったかもしれないけど、今の僕たちの売り方とは合わなかった。
ストーリーズはアイデアというわけでもなく、普通に撮ってUPしています。犬を5年くらい前に飼い始めて、今までも散歩していたけど、今年の春はなぜか風景や周りのことが気になり出して、投稿するようになりました。
春は昨日まで咲いてなかったものが急に咲き出すなど変化が顕著で。柿は赤くなってからしか知らなかったけど、実がなり始めたときの柿の赤ちゃんはこうなんだ。紫陽花の新芽はこんな風なんだとか。
そういうことへの感動がすごくあって、写真を撮り始めた気がする。コロナの自粛期間はどこにも行けず、誰にも会えなかった影響もあると思う。1日の中で犬の散歩をする時間がすごく大事なものになっていったし、Instagramの投稿に対してのリアクションも大きくて。見てくれている人、喜んでくれる人がいるというのは嬉しいです。
PROFILE
上出惠悟
1981年、石川県能美市に生まれる。1879年(明治十二年)創業の九谷焼窯元・上出長右衛門窯の5代目の長男で6代目候補。「合同会社 上出瓷藝」代表。石川県立工業高校卒業後は東京芸術大学に進み、2006年に同学美術学部絵画科油画専攻を卒業。現在は窯のディレクションを行う一方、個人の作家としても活動している。
坂下有紀(つきといと/コミュニケーションディレクター)
富山県氷見市出身。石川県金沢市を拠点に活動する編集者・ライター・プランナー。タウン誌の編集者、ワイナリーや酒蔵勤務を経てフリーランスに。金沢暮らしは2008年から。学芸員・利酒師の資格も持つ、旅と歴史とお酒好き。陶芸・吹きガラス・漆芸・木工・金工・和紙と、興味のある工芸は自分でも挑戦してみるタイプ(そこそこ器用です)。