工芸の新たな楽しみ方を提案するWEB MAGAZINE。
作り手やアーティスト、北陸で暮らす人たち。
様々な角度から工芸の魅力をお届けします。
2021年度の展開に向けて動き出した「GO FOR KOGEI」。工芸への新たなアプローチを求め、総合監修・秋元雄史が、東京国立近代美術館 工芸課 主任研究員・中尾優衣さんとオンラインで対談をしました。中尾さんは国立工芸館で開催され、秋元が感銘を受けた「うちにこんなのあったら展」のキュレーションを担当されています。対立項として語られがちな「デザイン」と「工芸」の本来的な関わりとは。対談の様子をお届けします。
秋元:先日拝見した「うちにこんなのあったら展」が、自分なりにとても発見の多い展示で。そこで私の一方的な想いから、今回こうして突然お声がけさせていただきました(笑)。どうぞ宜しくお願いします。
私は元々は現代アートをやっている人間なんですけれど、北陸に行くようになって工芸に触れる機会が増えまして。その中で感じていることが、工芸は現代アートとの接点のようなものを強く持っているのではないかということ。そしてもう一つが、今でいう「デザイン」のようなものと工芸の接点が、今後さらに強くなっていくのだろうという予感です。
現代アートと工芸の方は自分の専門ジャンルでもあるので、自力で展覧会を作ってきたりもしたんですけれど、「デザイン寄りの工芸」みたいなものをどういう風に捉えていくかは、自分の中でずっと課題だったんですね。同時にその「デザイン」という要素は、これから工芸を考えていく上ですごく重要な要素になる気がしているので、何かしらのアプローチをしていきたいとずっと考えてきたことなんです。
秋元:その中で、戦後の工芸がデザインと結びついていった様子に、「デザインに橋渡ししていく工芸」の可能性みたいなものが隠されているんじゃないかと、勝手に想像していて。
そこにきて今回中尾さんが企画された「うちにこんなのあったら展」が、私がまさに考えていたことと重なって、単に工芸品としてというより「工芸とデザインの間で生まれてくるもの」にフォーカスされているというのか、そのあたりがとても面白く感じたんです。
それも伝統工芸や日展系の工芸、あるいはクラフトというものともまた違った視点だったし、「展示する」ことよりも「使う」という切り口からの企画だったところにも共感しました。そこで、中尾さんがこの展覧会を考えていく上で参考にされたポイントや初期デザインのコンテキストのようなものがもしあれば、教えていただけるとありがたいなぁと思っています。
中尾:展覧会を深く分析して観ていただき、ありがとうございます。私はもともと学生時代に近世の漆器について勉強していて、就職した京都国立近代美術館では近現代工芸が専門でした。デザインの展覧会も担当するようになったのは、4年ほど前に東京国立近代美術館工芸館の「デザイン室」という部署に配置換えになってからなんです。少しずつ専門分野が変わってきたからかもしれませんが、「ものをつくる」という一つのことが歴史のなかでどのように細分化されていったのかということに、ずっと興味を持っています。
実は工芸館は「工芸作品」と「デザイン作品」の両方を収集・保管する施設として存在するのですが、このことは一般の方はあまりご存知ないと思います。工芸館と言えば、その名の通り工芸専門の施設だと思われている方が多いと思いますが、デザイン作品もたくさん収蔵しているのです。
デザイン室で所管しているものは、「工業デザイン」と「グラフィックデザイン」の二つ。当館では工芸館が設置される1977年より前から、デザインに関する展覧会を開催してきました。ですが、「工業デザイン」として海外の家具などを本格的にコレクションに加えるようになったのは1980年代後半から、「グラフィックデザイン」の収集はさらに後の1990年代に入ってからなんです。デザイン室といっても、ファッションや建築まで広く網羅しているわけではないのですが、主にプロダクトとポスターという、性格の違う作品でコレクションが構成されています。
中尾:石川移転後に、開館記念展の一つとして「デザイン」をテーマにした所蔵作品展を担当することは決まっていました。それで、工芸館のデザイン作品をまとめて見ていただく機会が少ない中で、どんな展示をすれば良いのかということから考えました。デザイン室だから、単に所蔵しているデザイン作品を並べればいいのかというと、それでは総花的な紹介になってしまうので。
また、「そもそもデザインと工芸の違いって、一般の方にはあまり理解されていないんじゃないか」という思いも、以前からずっと抱えていました。
例えば同じ「コーヒーセット」だとしても、森正洋がデザインしたものは当館では「工業デザイン」という種別に分類され、一方で人間国宝の濱田庄司や富本憲吉が制作したものは「陶磁」という種別で、「工芸作品」として扱われます。一般の方が見たときには、どれもコーヒーセットであるにも関わらず、ジャンルだけが違う。もちろん、それぞれの違いはたくさんありますが、「これはデザインです/これは工芸です」という部分を強調して見せる必要が、果たしてあるのだろうかと。美術館に入った作品は必ずどれか一つの種別に紐づけられるのですが、それはあくまで管理上の話。工芸もデザインも同じ「ものづくり」であることには変わりないわけです。
※森正洋…陶磁器デザイナー。伝統的な陶磁器の世界に、モダンな感性を吹きこんだ。(1927-2005)
中尾:そしてもう一つ考えていたのは、「工芸」と「デザイン」は決して対立項として存在しているわけではなくて、デザインというものは本来もっと広い領域を指しているということ。例えば工芸の中での「デザイン」というと、形や模様といった話になりがちですが、「どう量産化していくか」「消費者の手にどう届け、どう使ってもらうか」といった、作る工程のその先や周辺のことまで、デザインには含まれるはずだと思うんです。
「工芸」の世界だと、必ずしも重要なことではない部分かもしれませんが、工業デザインの場合はここが必須になってきます。そういった全然違うものを、同じレベルで比較すること自体、本当に必要なのかと。
工芸とデザインというものは歴史的にはすごく複雑な流れがあって、そんな簡単に分類できるものでもなければ、両方にまたがっているということもたくさんある。だから私は今回の展覧会で「ここまでが工芸で、ここからがデザインです」という見せ方をするのはやめようと思ったんです。
秋元:非常に面白いですね。おっしゃるように、「工芸」と「デザイン」というのは、デジタルな境界で分けられるようなものではありませんよね。この間見せていただいた展示も、作り手の視点からすれば複雑に入り組んでいるのだけれど、観ている人からすればそんな細かいことは関係なくて、「これは使ってみたい」とか、それこそ「うちにこんなのがあったら」という視点でみているんだと思うんです。
中尾:はい。だからこそ「工芸」や「デザイン」といった言葉をあえて前面に押し出さず、ややこしい知識は抜きにして、実際の「もの」を誰もが気軽に見られるような展覧会にしたかったんです。
そして、そういった鑑賞体験を提供することは、工芸館が石川に移ってきた初期の段階として意味のあることなんじゃないかとも思っていました。私は小さい頃から美術館によく連れていってもらっていたのですが、4・5歳の時に観た作品というのは強く記憶に残っていて。工芸館は、子どもが自らすすんで来ようと思うような場所ではないので、今回の展覧会は子どもたちにも読めるよう、ひらがなのタイトルにする前提で考えました。
秋元:今お話をお伺いしていてスタンスのようなものがより理解できました。ちなみに、中尾さんが戦後の工芸とデザインが入り混じったあたりに取り組まれる中で「この辺は見ておいた方がいい」といったものはありますか?
中尾:私が普段読むのは『工芸ニュース』などですかね。名前は「工芸」ですが、今の感覚からすると、工芸じゃなくて明らかにプロダクトデザインに関する内容なんですけれど。刊行された時代の工芸とデザインの関係性がよく表れていて、そこが面白くて。一品制作の美術工芸を思い浮かべる人からすると、機械化されていく過程は、おそらく「工業化への流れであって、工芸じゃない」という見方になるので、そもそも工芸として認識されないのかもしれません。
ですが、遅まきながら発展してきた日本のデザイン、特に工業デザインの歴史というのは、まさに手工芸が「どう機械化していくか/どう量産化していくか」という課題と向きあってきた歴史でもあるわけです。その中では「規格化」という言葉がたくさん出てきます。1930〜60年代にかけて、日常で使うものが必ずしも人の手だけで作らなくてもよくなっていった。量産化・機械化していく中で、本来「ものづくり」という一つの場所から出てきていたものが、ここで「工芸」と「デザイン」に枝分かれしていったのです。
機械化・量産化ができるものは「デザイン」の問題にどんどん進んでいく。一方で、では「工芸」は何を発展させていけばいいのかと問われる。その中で、答えの一つが“芸術性”であったり「一品制作の中で個性を表現していく」という、秋元さんがおっしゃるところの“アート化”に繋がっていくと思うんですね。
戦前戦後はちょうどその境目になると思います。それまでは多くのものが手づくりで、作れる量も限られていたから、直接関わる顧客のことまでしか目が行かなかったけれど、それが例えば海外にまで輸出されたりして、より遠くの人や情報と繋がりやすくなった。「社会」というもっと広いところに目が向けられるようになっていく時期だったのかなと思っています。
秋元:ああ、今のお話は非常におもしろいなぁ。今ちょうど、その逆の流れになってきていますよね。世の中が大きく大衆化して物があふれている時代です。「デザイン」というものが広がるだけ広がってしまって、言うなれば100円ショップやファストファッションに至るまで、流通も含めてかなりのレベルにまで達してきてしまった。物が行き渡っている中でかつてのように物を作るよろこびや使うよろこびが薄らいでしまった。今度はそこから「どうよろこびを回復するか」「いかに単に消費されないものにするか」といった、ものづくりの発想を根本から考え直すような時期に来ています。
そうするとちょうど、一品制作からより多くの人へ届けようとする「工芸からデザインへの変化の時代」が、逆巻の形でおもしろく見えるなぁと思ったんですね。単に美術史的な話ではなくて、「ものづくり」という大きな視点で1930年〜60年代というものを見直してもいいのかなと。
秋元:ひとつ質問なんですけれど、「工芸」と「デザイン」って、どうして対立していってしまったのでしょう?今だと相反するものとして見られがちというか、互いに協調関係にあるというよりは、むしろ別々の道を進んでいってしまっている気がするんですよね。
中尾:ひとつ理由としてあるのは、無意識に今の感覚で過去のものごとを捉えようとしてしまう、私たちの視点かもしれません。現代に生きる私たちにとっては、工芸といえば高い技術で、時間をかけて作られた、とても高価な物としての「美術工芸」、「伝統工芸」をイメージしがちですよね。そういう時代の価値基準の中で育った人が、工芸に接した時に「一品制作」の工芸に価値があると感じるのは自然なことです。
例えば「超絶技巧」と呼ばれる工芸作品は、すごいということは専門家でなくても見た目で直感的にわかります。今でこそ“かなり過剰なアート”として人気がありますが、それだって改めて注目されて再評価されるようになったのはごく最近です。
生活の中で必要とされてきた「そんなに高いレベルを求められていない工芸品」は、なおさら価値の高くないものとされた時期が長かったのではないでしょうか。工芸とデザインの繋がっている部分に目を向けないと、その二つは離れた場所にあるようにみえて、直結して捉えられなくなっているように思います。
秋元:なるほど。確かに伝統工芸品でも、大皿や箱など「使えるもの」っぽくは見せているけれど、基本的にはあれは飾ることを前提とした「芸術作品」ですもんね。だから美術館で展示されている状態が一番よく見える。
「生活の中で使えるもの」としての工芸って、どこかでデザインの方にその価値を移行してしまって、工芸自体は芸術の方に向かってしまったというところがあるのかもしれませんね。もしくは工芸品には郷土の文化を代弁させて、“お国の産品”として記号化させてしまって、くらしの中で便利で、かつ美しく使えるものという役割はデザインに渡してしまったのかな。
秋元:あともうひとつ中尾さんに聞いてみたいんですけど、今「民藝」が、その思想も含めて改めて再評価されてきていますよね。例えば「生活工芸」といった言い方で、現代版民藝的なものも出てきています。中には少しノスタルジックな雰囲気のものもありますが、私にはどうも雰囲気が先行しているように見えることがあって、くらしのデザインになっているのかどうなのか、そのあたりはよく分からないところがありまして。
民藝の思想にリスペクトを持つこと自体はもちろん良いと思うのだけれど、果たしてそれが次の時代の暮らしをデザインするものづくりになっているのかと思ったりしています。ちょっと意地悪な見方かもしれないですが、60年代のコピーバンドを見ているような気持ちにさせられることがありまして、懐古趣味のように見えてしまうのです。中尾さんはその辺どう思われますか?
中尾:確かに民藝に影響を受けてものづくりされている方が多いというのは私も感じますね。そこにはアート的な表現ではなく、あえて「器」をつくることにこだわる若い人たちが増えていることもあるのではないかと思います。彼らがものづくりをしていく上で、柳の思想が精神的な拠り所となるのは、ごく自然なことなんじゃないかと。
アートに寄っていく動機は、人によってさまざまな理由が挙げられるので、作り手が自分で説明することはある意味そんなに難しくないと思うんです。でも逆に「どうして器をつくるのか」となった時に、そういったものの価値や存在意義を柳ほど理論的に分かりやすく説明しているようにみえるものって、他にほとんど見あたらないと思うんですよね。もちろん、全員がそうであるとは思わないですけれど。
秋元:なるほど、それは分かりやすいな。依って立つときに「そうだ、民藝だ」と思えるということか。
中尾:柳のやってきたことは、まず「初期デザイン運動」として意味があったと思っているんです。今で言うと「工芸品」なわけですけれど、当時で言うとあれはそれぞれの時代・地域から生まれて、生き残ってきた「産業」ですよね。各地の産業をたくさん見てまわって、そのプロダクトデザインを蒐集していっている。それって「地方の名もない消えゆくものを集めよう」という郷愁的なものではなくて、工芸の現場から結果的に「ロングライフデザインが集まった」という方が的確だと思います。
民藝の本質は、実際の工芸やデザイン論というより、もっと別の精神的なところにあると思うんですけれど、柳の頭の中ではそれこそ柳宗理に繫がっていくような「プロダクトに対する視点」という道筋があったのではないか。そして、そこで工芸とデザインというものが繫がるんじゃないかなと。
秋元:あぁ、それは私も全く同じようなことを思っていました。おそらく柳の持っていたカリスマ性というか、思想家的なところには、多いに理想主義的な、芸術的な傾向があったのだと思うのだけれど、一方で「民藝」を通して生活を構成するプロダクトを見つめ直す視点というか、デザイン的な方向へと向かう発想もあったのではないかと思います。そこから息子の柳宗理の仕事へと繋がっていくのは私もすごく興味深いことだと思っています。
秋元:質問ばかりで恐縮なのですが、これも聞いておきたい。日本のデザインの展開というのは、それ自体の展開だったのか、ということです。むしろ、大きくは都市化の中で、建築の近代化と同様に、工芸からデザインへという流れがあったのではないかと思うのです。建築は、近代化の過程で和様化に随分と苦労していますが、同様の苦労が工芸にもあったのではないか。 むしろ建築などと一緒に考えたほうが、この時代の工芸の流れというのも見えてくるのではないか、新しい発見があるのではないかと思っているのですが、どうでしょう?
中尾:私もそう思います。明治の最初の頃って、「図案」という言葉の中に「建築」も「工芸」も含まれているので、その辺りから繋がっていると思います。建築があれば、その内部には室内装飾としての工芸もありますから。
デザインは明治期に「図案」として日本に入ってきた時と、もっと後に「デザイン」という言葉で入ってきた時と、二段階あるんですね。二段階目の「デザイン」の時は、圧倒的に「モダンデザイン」優勢の時代ですから、その価値観の中で評価されたものが今残っているわけです。かつての日本には「そうじゃないもの」が沢山あったのですが、欧米中心の基準で見たときには中々そういうものは俎上に上がってこなくて。だから日本のデザイン史を振り返ったときに、ヨーロッパやアメリカの影響を強く受けているように見えるのですが、それは当然で、デザイン思想の参照元自体がそこだからという部分も大いにあると思うんです。そこをきちっともう一度見直せば、いわゆるモダンデザインとしての通史とは全く違った日本のデザイン史が見えてくるのではないかと。
この端境期のようなところは、個人的にとても興味のあるところなのですが、なぜかここが手薄というか、工芸とデザインの間(あいだ)を研究されている方は少ないんです。
秋元:これからは、むしろ、そこが一番面白いところになるかもしれないですね。
中尾:そう思います。美術館の領域から抜け落ちているところが結構ある。そういうところも含めて、デザインと工芸とで出来ることが、もっとあるのではないかと思っています。
(取材:2021年2月)
柳田 和佳奈(ライター/有限会社E.N.N.)
1988年富山県黒部市生まれ。富山大学芸術文化学部 文化マネジメントコース卒業。金沢で地元情報誌の編集者を経て、現在は有限会社E.N.N./金沢R不動産でローカルメディア「reallocal金沢」の運営などをしている。